修学旅行・自然教室・移動教室のご案内/農村体験

農村体験 〜人と自然の営みを体感し感性を育む総合学習〜

1.農村体験とは
豊かな自然に囲まれた農村を舞台に、6〜12名位のグループに分かれ受け入れ先となる農家で農作業のお手伝いなど、ありのままの農村生活を日帰り体験することができます。農村体験は単なる収穫体験とは異なり、受け入れ先の農村家庭や村の人々との交流に重点を置き、日常の農村生活の中から様々な課題に取り組んだり体験をすることで、学校や普段の生活では経験することができない貴重な体験学習になるでしょう。

2.こんなことが体験できます
種まきや苗の植え付け、草取り、収穫など四季折々の農作業のお手伝いをはじめ、農機具の手入れ、ヤギの世話、シイタケ栽培、薪割り、炭焼きなど、野外での体験学習には事欠きません。また、そばやほうとうを打ったり、探れたての野菜を便つたおやきやまんじゆう、漬け物などを作ったり、農村のなにげない日常生活においても学習できることは多いはずです。
人生経験が豊富なお年寄りから農村での生活の智恵、昔の農村の暮らしぶりや生活習慣、伝統文化、郷土史、方言などについて聞くのもいいでしょう。ありふれた農村だからこそ、総合学習の場として様々な体験をすることができます。

3.体験学習をとおして
様々な農作業や野外学習をとおして、農業という産業の重要性と食の大切さを知り、生き物への慈しみ、自然への感謝と環境保護の意識を育てます。また、受け入れ先の農村家庭や村の人々とふれあうことで、現代社会が失いかけている地域社会のあるべき姿を知り、挨拶にはじまるコミュニケーションの原点を学ぶこともできるでしょう。都会の喧嘩や目まぐるしい日常生活から離れ、雄大な自然に囲まれて過ごす農村での1日が、次世代を担う青少年の心を豊かに育み、健全な育成の一助となれば幸いです。

 


受け入れ方法
□人 数
6〜10名くらいのクループ
□農家・酪農家 
30軒くらいの受け入れ農家
□スケジュール 
9:00〜15:00 農村体験
※昼食は各自で持参してください。
□準備するもの
上下長袖・軍手・名札・水筒・雨カッパ・
長靴又はレジ袋2 枚・タオルなど
のどかな田本の農村風景をとどめる樫山地区


体験風景(2005)


●樫山・浅川地区というところ
清里駅から東へ車で15分ほど離れた樫山・浅川地区は秩父多摩甲斐国立公園の西端に位置し、西に主峰・赤岳をいただく八ヶ岳連峰、南西に南アルフス山脈といった3,000m級の山々を間近に望み、富士山を遠望する標高約1,000mの高原に、人知れずひっそりとたたずむ山あいの村。専業・兼業農家や定年就労農家など約120世帯が暮らし、清里の賑わいとは対照的に素朴な日本の農村の原風景を今にとどめる地域です。清流から引いた水面が輝く水田や、真っ白に花咲くそばの畑が一面に広がるのどかな田園風景に、冷涼な気候を活かした高原レタスや白菜、トマトやキュウリ、トウモロコシの畑が彩りを添えています。また、萌えるような新緑や秋には山を黄金色に染めるカラマツ林に包まれた里山には、鹿、猿、狐、狸やリスなどの野生動物が棲息し、まさに自然と人とその営みが渾然一体となった農村です。

●清里高原の歴史
「清里村」は明治8年の町村合併の際、樫山・浅川部落が合併し、人口616人でスタートした“静かな村”というより“寒村”という言葉がピッタリの村でした。当時、現在の清里・念場原(国道141弓線沿い)はまだ無人の広野でした。
昭和の初め、関東大震災の後で人口が急増した東京では、水源を確保するためダム建設の必要性に迫られました。そこで候補地として白羽の矢を立てられたのが、奥多摩の小河内村でした。紆余曲折の末、昭和13年、住民がダム建設を認め、小河内村に隣接する丹波山村・小菅村の−部もダム用地になることが決まりました。ダム建設で家を失った農民が現在の清里・念場原に移転してきたのが、昭和13年4月17日のことです。
当地に農林省の役人として赴任していた静岡市出身の安池興男氏は、28世帯の人達を開拓団として受け入れます。しかし、丹波山村・小菅村の農民は焼畑農業の経験しかなく、開拓は困難を極めました。清里の土は黒くて良い土に見えますが、八ヶ岳山麓は酸性の灰土で作物は育たず、水もほとんどありませんでした。肥料も種子も安池氏の月給から支払う始末。また、自ら借金して子供たちの分教場を造ったことも、農民がその事実を知るのは安池氏が去った後のことでした。昭和13年、奇しくもアメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士(清里の父)が清泉寮を建設します。立教大学の施設で当時は一般人の立ち入りはできませんでしたが、酪農などが縁で自然と地域との交流が深まりました。戦後、清泉寮は民主主義教育の施設になり、“ポール・ラッシュ祭”は地域の人たちに希望を与えました。
清里・朝日ケ丘(牧場通り)は戦争中に家を失った都会の人たちを募って開拓が進められました。この開拓は国家事業として補助金も充てられましたが、農業を知らない都会育ちの8割近い人たちが脱落しました。
昭和22年には清里・東念場に樫山・浅川部落から農家の次男、三男が開拓に入りました。苦労はしましたが家族の支えもあり、入植者19名のほとんどが定着して現在に至っています。
昭和40年代中頃、清泉寮付近の景観や美し森のつつじなどを売り物に観光が始まりました。谷口牧場、小須田牧場などが牧場民宿としてスタートし、マスコミが清里ブームに火をつけます。昭和55年から急増したペンションも一躍ペンションブームを巻き起こし、戦後7,000人台まで落ち込んだ高根町の人口も10,000人弱まで増加しました。
清里高原は旧清里村と開拓で入植した先人の歴史に支えられた、農業と観光が共存する町として今日に至っています。